「塾なし中学受検」を考える

〜塾に通わず、通信教材のみで都立中高一貫校に合格しました〜

都立中高一貫校 適性検査対策「読解力について①」

今回は、都立中高一貫校受検における読解力の重要性について感じたことを中心に書きたいと思います。

 

適性検査の過去問、特に検査ⅡとⅢをご覧になったことのある方には共感していただけると思いますが、まず問題文自体がかなりの長さになっており、それを読んで理解する必要があります。その上、45分という非常に短い試験時間の中で難しい問いにも答えて行かなければならないということで、処理速度も求められます。娘のA子の場合、6年生の1月から志望校の過去問を実際の試験時間で解くことを始めましたが、制限時間内に解き切るのはかなり厳しく、問題との相性が良ければ何とか解き切れるものの、そうでない時は時間が足りずに終わってしまう、といった状況でした。

 

そのことを考えると、適性検査問題を問題として解けるかという前に、まずは基本的な力としての読解力は不可欠だと感じます。そして、読解力と同時に速く読む力もまた重要です。問題文をきちんと理解しながらそれなりの速さで読むために、私が対策として考えたのは、本当にありきたりなことですが、「読書」でした。より正確に言えば、都立中高一貫校受検の対策として読書を勧めたのではなく、元々の教育方針の中に「とにかく読書はどんどんさせる」というものがあり、その結果として適性検査問題の読解に役立った、という流れになります。

 

以前書いた「『塾なし中学受検』を選んだ理由」でも触れた通り、我が家は経済的な理由から塾に通わせずに受検する道を選んだのですが、本についてだけは「書店で子供が興味を示した本は購入する」ことにしていました(本気で計算したことはまだないのですが、この10年間の子供の書籍購入費は合計で100万円は優に越えているかもしれません。それでも子供1人を3年間進学塾に通わせればまず200万円は越えると言われていますから、それに比べれば抑えられていると言えます)。さらに、それより以前は、つまり子供が自発的に本を選べるようになる前までは、親の視点で読み聞かせしたい本、いずれ読んでほしいと思う本を購入していました。

 

私自身が読書を趣味としていることもあり、住まいの部屋全体に本棚にして10棹分以上の本があるため、元々本を買うことにあまり躊躇はなかったのですが、さすがにそこにプラス子供の本となるとスペース的にかなり厳しくなってきてしまうため、自分自身のための本は電子書籍で構わないものはそれで済ませるようにしてきましたが、それでも紙の本もちょくちょく買うので最近はかなり置き場に困っている状況です。

 

若干話がずれてしまいましたが、何を言いたいかというと、子供に本を読んでもらうようにするために個人的に効果があると思うのは、物理的に周囲に本が沢山ある環境を作ることです。よく教育関係の雑誌や動画などで、「本好きな子供に育ってもらうにはどうすればいいか」といった親からの質問や悩みが扱われることがあります。その答えとして最近よく目にする気がするのは、「親御さん自身が本を読んでいますか?親が読書をしないようでは子供もなかなか本を読もうとしませんよ」という、親の姿勢を問う回答です。確かにそれも一面で真実だと思います。というよりも、「親が本好きならその傾向が子供にも概ね遺伝する」ことを逆方向から説明しているだけかな、という気もしないではないのですが、仮に「では子供の前で本を読んでいるところを見せようか」と思ったところで、読む本は当然親子で異なるのですから、子供が読みたい本、そして親が読ませたい本の準備はいずれにせよ必要なわけです。

 

その時に、子供の周りに実際に本がなければ読みたくても読めないのですから、できるだけ多くの本を用意しておくことが重要だと考えます。ただ、繰り返しますが、これは私がこれまでの経験から色々と考えた末に個人的に行き着いた考え方であり、ここは価値観や経済状況で方針が分かれるところだと思います。私のこの考え方に価値観の面で衝突するのは、「部屋はスッキリと、余計な物は一切置かない派」でしょう。四半世紀近く前から「捨てる!技術」、「片付けの魔法」、「ミニマリスト」等々と、連綿と続く系譜のあれです。私は個人的に真逆の考え方なので(むしろ「立花隆的知的混沌」を好みます)、この系統の考えをお持ちの方には全く説得できる余地はないと考えます。ただ、経済的事由で本を購入することが難しいという向きに対しては、できれば古書店での購入、それも難しければ地域や小学校の図書館の最大活用でほぼ対応可能だと考えます。「ほぼ」と敢えて書いたのは、やはり理想は子供のお気に入りの本が常に手元にあるという環境だと考えるからです。

 

その利点は2つあると考えます。まず、子供の読書傾向を見ていて気付くのは、子供はお気に入りの本は何度でも飽きずに読み返すということです。これはまだ自分で本を読めない読み聞かせ期に本当に顕著ですが、もうこちらが疲れてヘトヘトになってしまうほど同じ絵本を「読んで!」と持って来ますよね?😅これって自分で読書できるようになってからも大体変わらない傾向だと思うのです。やはり子供はお気に入りの本は勉強机の前の棚やベッドの宮に並べて、何度も何度も繰り返し読んでいるみたいです。これは本人が楽しいことはもちろん、活字に慣れるという意味では最高の方法になっていると思います。もう一つの利点は、これは家族構成によりますが、下に弟妹がいる場合、そのまま本を引き継げるということです。時には下の弟妹が兄姉の読んでいる本に興味を示して手に取ったり、兄姉が自分が読んで面白かった本を下にあらすじを解説して勧めていたりもしました。兄弟姉妹の最高のコミュニケーションだなと感じました。これらはいずれも本自体が家にあって初めてうまくいくことです。その点において、私は古本でもいいから家に物理的に本がある環境が良いと思うのです。

 

以前読んだユダヤ人の教えに関する本の中で知った格言で私が好きなものに、「もし貧しくて物を売らなければならないとしたら、まず金、宝石、家、土地を売りなさい。最後まで売ってはいけないのは本である」というものがあります。本を知識の象徴、源泉として捉え、崇高なものとする価値観は、本当に素晴らしいと思います。

 

〜「都立中高一貫校 適性検査対策『読解力について②』」に続きます〜

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都立中高一貫校 適性検査対策 「調査書について③」

〜「都立中高一貫校  適性検査対策  『調査書について②』」からの続きです〜

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前回、前々回と、いくつかの観点から調査書について書きましたが、今回もその続きを書きたいと思います。

 

前回の「都立中高一貫校 適性検査対策『調査書について②』」では、調査書を得点源としてだけでなく、調査書点すなわち小学校の成績を上げていくプロセスそのものが適性検査問題を解くのに必要な学力を身につけることにつながっているのではないか、との視点を示しました。我が家のA子の場合、小学校で任意の提出物として小学4年生の時から課されていた「自学自習ノート」に3年間継続して取り組んだことが学力の基盤構築になったのではないかという考えについては前回書いた通りです。

 

一方で、調査書の内容をより良くしていくことにつながる勉強以外の要因としては、行事を含む小学校での様々な活動にどんどん積極的に挑戦していくことが挙げられると思います。このように書くとあたかも調査書の成績アップのために頑張るのか、と思われてしまいそうですが、それはあくまで結果からさかのぼっての話であって、やはりここでも大切なのは子供が色々なことに挑戦する過程と、そこから得られる経験だと思うのです。

 

A子を例に出して言いますと、彼女は元々は決して自分から進んで前に出て行くタイプではありませんでした。むしろ慎重に周囲の様子を伺いながら、自分の出方を決めていくようなところがあったようです。そのため、小学校からの帰宅後に色々と話をしていると、「今日◯◯の授業で先生が『△△についてどう思う?』ってみんなに聞いて、ほとんどの子が◇◇って答えてたんだけど、自分は××だと思った」といったことを言う時があり、私が「A子がそれ言ったらどんな反応だった?」と聞くと、大抵「え、面倒くさいから言わなかった」という返事が返ってくるということが、特に4年生くらいまでは多かった気がします。

 

それが、5年生以降から少しずつ前に出て行けるようになり、例えば行事の司会や進行の役割、長期休暇明けの朝の朝礼でのスピーチ、式典でのピアノ伴奏など、立候補者が求められるチャンスがあれば、どんどん手をあげられるようになったそうです。もちろん、選ばれる時もあれば選にもれてしまう時もあったようですが、選んでいただけた時はとても喜んでおり、またそのような機会の積み重ねが本人の自信の形成につながっていたように思います。家庭では選ばれた時はもちろん目一杯褒めてやりましたが、選ばれなかった時は挑戦したことの立派さをそれ以上に褒めてやるようにしました。それもあってか、A子は選ばれなくても腐ることなく、次の機会が来ればまた手を挙げるということができていたようです。

 

都立中高一貫校に入学して間もなくA子から聞いた話なのですが、早速5月に行われる行事のクラス委員2名を決めるために担任の先生が立候補者を募ったところ、クラスの半数以上の生徒が一斉に手を挙げたそうです。それを聞いた時、私はさもありなんと思い、それと同時に学校側が調査書を選考要件の一つに入れている理由はこういう所にもあるのだろうと得心がいったのでした。つまり、何事にも興味・関心を持って主体的に関わって行く姿勢を持っているかどうかを、調査書における評価を通して見ているのだと思うのです。学力テストだけでは測りにくいこのような資質を、2〜3年分の調査書を通して確認するという意味がここにはあるのだと思います。

 

その点で個人的に少し違うのではと思うのは、YouTube等で見かける「調査書点を上げるために授業中はとにかく手を挙げよう!」といったアドバイスの類です。もちろんテクニックとしてはそれによって先生の印象は良くなり、結果的に調査書点が上がる可能性も高まるでしょう。けれども、言い方は難しいのですが、個人的には「そういうことじゃないんじゃないかなあ…」と思うのです。少なくともそこに子供の主体性がない限り、ドーピングのようにして得られた点数になるわけで、先ほどお伝えしたような入学後の周囲の生徒との姿勢の差が負担になってしまうのではないかなと感じます。ただ、ここは多分に個人の考え方の違いによるところですので、「あくまで合格を目標として、少しでも取れる点は取るんだ」というのも一つの姿勢としてあってもいいとは思います。

 

 

 

都立中高一貫校 適性検査対策 「調査書について②」

〜「都立中高一貫校  適性検査対策  『調査書について①』」からの続きです〜

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前回の記事「都立中高一貫校  適性検査対策  『調査書について①』」では、私が調査書を重視した理由として、「得点源としての重要性」を挙げました。調査書が適性検査全体の点数に占める割合は2〜3割になるため、合否において数点の差が重要になってくる適性検査ではなるべく多くの点数を調査書で確保しておくに越したことはない、という観点からの理由です。

 

今回はそれとはまた違った観点から、私が感じた調査書の重要性を述べたいと思います。それは一言で表すと、「調査書の点数=学校の成績」が上がることにつながる全ての学びはそのまま本人の力になるということです。ここでいう「本人の力」とは、もちろん実際の適性検査の問題で得点できる学力という意味も含んでいますが、それ以上に都立中高一貫校が受検生に求めている力や資質のベースになるものという意味合いが強いです。

 

A子の場合を例にとって具体的に言いますと、彼女が小学校中学年の時に担任になった先生は、提出は任意の宿題として「自学自習ノート」というものを推奨されていました。これは文字通り自分でその都度学ぶテーマを決めて、どのような手段でもいいからそれについてまとめ、先生に提出するというものでした。後に妻から聞いた話によると、かつては調べ学習を基本として課されていたものだったのが、私立中学受験の塾通いで忙しい生徒の親から「勉強の負担になる」と一部不満の声が上がり、娘の頃には塾で課された宿題のプリントを貼り付けて提出してもよいとなったそうです。少し話がそれてしまうのですが、このことを聞いた時、私はこれこそ本末転倒の見本のような話だなと思いました。そして、このような視野狭窄(と言うより唯我独尊)状態に陥ってしまう人が出て来てしまうことに中学受験システムの闇を感じるのですが、とりあえずここではその話は置いておきます。

 

私の娘にはこの自学自習ノートがとても合っていたようでした。前提として、当時の担任の先生のことが大好きで、先生の前で一生懸命頑張っているところを見せたいという気持ちもあったようですが、何より毎回ノートの1〜2ページをどんなテーマで何を調べて埋めるかを考え、提出したノートに先生のコメントをもらい、それを少しずつコツコツと積み上げていくというプロセスが本人の性に合っていたのかもしれません。いずれにせよ、特定の教科に偏ることなく様々なテーマについて図鑑や事典を中心に調べてまとめるという作業を卒業までの3年間続けたことが、Z会の通信教材から得られた教科の基礎学力とは別に本人の力となり、最終的に適性検査に取り組むにあたって大きな底力となったことは間違いなさそうです。また先述の通り、そのような学習姿勢こそ都立中高一貫校が生徒に求めるものなのではないかと思っています。結局のところ、現行の適性検査はその特性から判断するに、知識詰め込み型の学習をしてきた子供よりも自分で学びたいことを見つけられる子供、周囲から「これをやりなさい」と指示されるのを待つ子供よりも「これがやりたい」と自分から発信できる子供を求めていることが伺えます。そのような点からも、偶然の出会いではありましたが、娘の担任の先生がこのような形式の課題を課してくれたことには心から感謝しています。

 

私立中学受験において、小学校の勉強はともすればほとんど役に立たないものといった扱いを受けてしまうことが往々にしてあると思います。私自身が小学校時代、中学受験塾に通っていたことで生意気にもそれに近い考えを持っていたと思います(授業が楽しいとは思っていましたが)。けれども、そもそも本当に大切な学びとはただ単に教師から与えられる知識や技術をそのまま身につけるだけではなくて、繰り返しになりますが自ら学びの対象を見つけてアプローチしていくことにあると言えますし、とりわけこれからの世の中ではそのような姿勢が勉強に限らずますます求められていくと言われているわけですから、適性検査に限らずその点でも小学校での学びは重要だと言えるかと思いますし、少なくとも姿勢次第でいくらでも実り多いものへとしていけるのではないかと感じます。

 

〜「都立中高一貫校  適性検査対策  『調査書について③』」に続きます〜

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都立中高一貫校 適性検査対策 「調査書について①」

こんにちは。今春、第一子A子が塾に通わずに都立中高一貫校に合格したことに関してあれこれと記述していくブログです。

 

今回は適性検査対策のうち、調査書について思うことを書きたいと思います。まずは調査書が適性検査全体に対して占める割合ですが、2022年度では高い方から30%、25%、20%の3パターンがありました。30%が3校、25%が3校、20%が4校あり、割合が高い順に並べると以下の通りです。

 

〈各校の調査書点/総合点 ・  通知表3段階の換算点〉

桜修館 300/1000 (30%) ・  25 / 17 / 9

大泉 300/1000 (30%) ・  30 / 20 / 5

富士 300/1000 (30%) ・  25 / 15 / 5

小石川 200/800 (25%) ・  25 / 20 / 5

立川国際 250/1000 (25%) ・  20 / 10 / 5

武蔵 400/1600 (25%) ・  25 / 20 / 5

白鷗 200/1000 (20%)  ・  20 / 10 / 5

三鷹 200/1000 (20%) ・  40 / 20 / 5

南多摩 200/1000 (20%) ・  20 / 10 / 4

両国 200/1000 (20%) ・  40 / 25 / 5

 

割合が低くても全体の20%、高ければ30%も占めるわけですから、個人的には非常に重要だと感じていました。この調査書の扱いについてネットを中心に調べ始めた時、私が感じたのと同様に「重要である」「決して軽く見てはいけない」といった意見が見られた一方で、「総合点に対する比重では適性検査検査Ⅰ〜Ⅲで7〜8割を占めるのだから、あまり気にしなくてもいいでしょう」といったものもありました。けれども、そのように言える前提としては、適性検査ⅠとⅡで確実に高得点を狙えるだけの実力がなければならないわけで、よほどできる子供でない限り調査書点は可能な限り確保しておくのが得策でしょう。

 

また、その上でもう一つ注意しておきたいことは、3段階の換算点に大きく差をつけている学校があることでしょう。特に3と1の間に大きな差を設けている学校が見られます。平均的には4〜5倍の差をつけている学校が多いようですが、中には三鷹や両国のように8倍もの差があるところもあります。一方で、桜修館だけはその差が3倍弱と、それほどの開きはありません。ですから、調査書の扱いについては志望校の特徴をあらかじめつかんでおくことが重要と思われます。いずれにしても、高倍率の都立一貫校受検においては、少しの差が合否を分けているに違いないので、調査書点は決して軽く見てはいけないと思うのです。

 

結論としては、「すでに学校の成績が大方決まってしまっている6年生の夏以降であれば今さらどうにもしようがないのだから、あれこれ思い悩むより適性検査Ⅰ〜Ⅲでできるだけ高い点が取れるよう対策に集中した方がいいのは間違いないと思うけれども、これから5年生ないし6年生を迎える時期にいるのであれば、できるだけ良い成績が取れるように努力した方がいい」というのが私の考えです。

 

〜都立中高一貫校  適性検査対策  「調査書について②」に続きます〜

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「塾なし中学受検」を選んだ理由③

〜「『塾なし中学受検』を選んだ理由②」からの続きです〜

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「『塾なし中学受検』を選んだ理由①」で挙げた以下の3つの理由のうち、今回は c. について書きたいと思います。

a. 子供自身の意思の尊重

b. 私立中学受験というシステムへの思い

c. 経済的な問題

 

このように理由を3つ並列させると、どれも同じくらいの重さであったかのように感じさせてしまうかもしれませんが、私にとって本質的だったのは前回、前々回で述べた a. と b. の理由であり、今回の c. はあくまで付随的な理由になります。というより、現実的な理由と言った方がより正確でしょう。私は中学受験は何より子供自身の意思が重要という考えを持っていますが、では我が子たちがそろって中学受験を希望したとしても、それはそれで叶えてあげることはおそらく経済的理由からできなかったと思われます。それは、我が家が多子家庭であるためです。ちなみに、かつて弾いたそろばんによると、もし子供が2人以下であったなら何とか可能だったと思います。3人であったなら、かなり厳しくはなるがそれでもギリギリ可。しかし、4人以上となると… _| ̄|○  …といったくらいの経済状況です😅ということで、子供たちに対する公平性の点からも、逆に第一子から通塾・私立中学受験はなしにしてしまおう!と考えたのでした。

 

そう言ってしまうと、子供の大事な将来に関することなのに、ずいぶんドライで割り切ってるな、それでいいのか?と思われてしまうかもしれませんが、この決断をした背景にはそれなりの根拠があります。a. b. の理由にも関わってくるのですが、私はこれまでの自他に対する観察そして分析から、「私立の方が公立より優位」と単純には思っていません。「どちらにもメリット・デメリットがあり、一人ひとりが自分に合った方向へ進むべき」だと思っています。私立の環境が合う子もいれば、公立の環境が合う子もいます。後はその他の様々な要因を踏まえて、各家庭が選択すればいいと思うのです。ただ、「その他の様々な要因」の中には当然経済的なものも含まれますから、我が家のように公立を選ばざるを得ない家庭もあるわけです。

 

もし経済的に私立中学受験を諦めざるを得ず、さらにその事が子供の将来にとってマイナスになってしまうのではと心配されている保護者がいるとすれば、それは絶対に気にしない方がいいと私は思うのです。これも自己の経験と他者の観察から導き出した意見なのですが、まず自ら私立中高一貫校に通った経験から言えることは、私学の環境を生かすも殺すも結局は自分次第である、ということです。特に勉強面についてはそう言えます。一般的に私学のカリキュラムは公立に比べて進度も速く、より高いレベルで組まれていると言われます。けれども、それを問題なくこなして行けるかどうかはまた別の話であって、まさに生徒の能力次第となって来るわけです。割合は学校によっても変動はあるはずですが、生徒の通塾率も思いのほか高いようで、学校の授業について行くため、または次の関門である大学受験に向けて、結局私学に進んでも塾に通う生徒は通うのです。それどころか、いわゆる難関私学に合格した生徒の方がそのまま鉄緑会や平岡塾といった大学受験塾に通うことが多いようですから、「私立一貫校に入れば普段の授業がそのまま大学入試対策につながるため、塾に通う必要はないのです」という誘い文句はそのまま信じるわけにはいきません。むしろ経済的な観点からは疑問が生じてしまいます。この辺りのリアルな事情については『ルポ塾歴社会  日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』(おおたとしまさ著、幻冬舎新書)が非常に示唆的でした。実際、私が通った中高一貫校は偏差値的には60弱のレベルでしたが、高2にもなればほとんどの生徒は塾や予備校に通っていました。もちろんより早い段階から通塾している生徒も一部いたわけです。

 

これらのことから考えると、少なくとも受験産業側が主張する「私立一貫校の方が、塾に通わなければならない公立に比べ、経済的にトータルではお得である」というロジックは成立しないと私は思っています。実際には私学に通いながら塾にも通う生徒の割合は想像以上に高いためです。「中高6年間で通塾が必要か否か」という問いに対しては、「私立か公立か」という二項対立の問題ではなく、単純に「本人が行くか行かないか(親が行かせるか行かせないか)」という考え方の問題だと思うです。

 

もう一つ、必ずしも私学に通わずとも本人次第でいくらでも結果は出せるという例を、今度は私の小学校時代の友人たちのエピソードから示したいと思います。以前のブログ記事でも多少触れたと思いますが、私が通っていた小学校は中学受験率が低く、そのほとんどが地元の公立中学校に進む学校でした。その中には、優秀でも家庭の経済事情や親の考え方から中学受験をしない友人もいました。彼らのほとんどはその後高校入試を経て公立高校に進学しましたが、そこから旧帝大や難関私大に合格し、現在日本やアメリカで大学の準教授をしている人も、大企業に勤務している人もいます。彼らとは小学校時代に仲良く遊んでいましたが、小学5年生、6年生と進むに連れてどんどん遊べる時間が少なくなっていった自分に対し、彼らは毎日遅くまで存分に遊んでいたようです。夕方5時から始まる塾のため、友人たちとの遊びを途中で切り上げて自転車をこぐ道すがら感じていた「もっと遊んでいたかった…」という気持ちは、30年以上経った今でもリアルに思い出します。タラレバを言っても意味のないことは承知していますが、もし自分が中学受験をせずに彼らと毎日思う存分に遊べる小学校時代を過ごし、地元の公立中学に進んでともに切磋琢磨しながら高校受験を経験していたとしたら、どんな人生になっていただろうか ー 高校受験がなかったことで途中勉強する動機を失ってしまい、基礎があやふやなまま大学受験に突入してしまった私は、時にこんなことを考えるのです(40歳を越えたいまだに、です)。

 

「塾なし中学受検」を選んだ理由②

〜「『塾なし中学受検』を選んだ理由①」からの続きです〜

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前回の「『塾なし中学受検』を選んだ理由①」では、以下の3つを挙げました。

a. 子供自身の意思の尊重

b. 私立中学受験というシステムへの思い

c. 経済的な問題

 

今回はb. の理由について書きたいと思います。これはa. と多分にオーバーラップする部分もあるのですが、自らの経験も含めて思うことが色々とある部分です。「『塾なし中学受検』を選んだ理由①」でも書きましたが、私自身の中学受験は自らの意志とは無縁の場所で決まっていたため、どうしても勉強に取り組む姿勢が甘くなりがちでした。子供の頃の思いで言えば、「もっと遊びたいのにいやいや塾に通っている」状況です。そもそも平均的な中学受験勉強の開始時期が小学4年生前後の時期であるため、その時点で「中学は公立か、それとも私立か?」という問いは、多くの子供たちにとって必然的に難しいものとならざるを得ず、畢竟親の計画や意志が主体になってしまいやすい訳です。これは現在でもほとんど変わらない、いやむしろ受験準備開始年齢の低年齢化が進むにつれてより強まる傾向にあるのではないでしょうか。

 

私は中学受験が成功する鍵の一つに、「受験生自身の強い希望」があると思っています。切っ掛けはどんなものでも構わないと思うのです。精神年齢が高めな小学生であれば、勉強であれ課外活動であれ、自分のしたいことが思う存分できる場として特定の私学に行きたいと考えるかもしれません。または、小学校での人間関係がうまくいっていない、あるいは地元の公立中学校の環境が著しく良くないため、このまま進学することが不安だという動機もありうるでしょう。いずれにせよ、本人に小学校生活の3年以上を費やして塾に通って勉強することを頑張り抜ける動機があれば、私は中学受験も選択肢の一つとして全く問題ないと思うのです。

 

私が個人的に問題に感じるのは、時として子供の意思を飛び越えたところで完全に親が主体となって行われてしまうような中学受験なのです。進学塾を中心としたいわゆる受験産業は、ありとあらゆる手で親を子供の中学受験参入へと誘導します。純粋に「私学はこんなに素晴らしい場所ですよ!」と紹介するだけでなく、時には「公立だとこんなに不安要素がありますよ!」といった形で、親の焦りを引き出そうとしたりします。けれども、冷静に考えれば当たり前のことなのですが、どんな子供にとっても私学が最適な環境であるなどということはありえないわけです。地元の公立中学に進学する子供たちと非常に良い友人関係を築けている子もいるでしょうし、私立中学に特有の男子校や女子校が肌に合わない子もいるでしょう。また、受験産業では戦略上公立中学を一括りにしてその構造的欠陥を指摘し、親の不安を煽ったりしますが、公立中学も地域や校長の力量によって素晴らしい取り組みをしているところはあるわけです。一方、私立中学と一口に言っても学校のレベル、共学か別学か、宗教のある・なしといった分かりやすい違いから、どんな生徒が集まりどんな校風を持っているのかといった外からではなかなか分からない違いまで、まさに千差万別であるわけですから、その中から必ず自分の子供に合う私学を選ぶというのは実はかなり難しいことなのではないかと思うのです。

 

ここで親が落ち着いて様々な要因をしっかりと検討し、その上で「やはり我が子にとってはこの私学が合っていて、本人もその学校への進学を望んでいる」という状況が作れたのであれば問題ないと思うのですが、実際には先ほどのような不安を煽られ、子供の思いとはまったく別の場所で何となく中学受験を考えているという保護者も多いのではと思うのです。そして、そのように親と子の向いている方向にズレがあるまま強引に中学受験の世界に入ってしまう時に、悲劇が起きうるのではないでしょうか。

 

こんな風に考える理由には、やはり私自身の体験が大きく影響しています。100%親の意向で中学受験勉強をしていた私には、いわゆる志望校もありませんでした。「『塾なし中学受検』を選んだ理由①」にも書いた通り、私の親もある程度学校のことを調べたり、説明会に参加したりして一定の情報はもたらしてくれていましたが、私自身に「私学に行きたい」という動機が欠けていたため 、結局はその時々の私の偏差値に合う学校を「志望校」として決められていたという状況でした。「その時々」というのも、小学校6年生の前半には4科で60強あった偏差値も9月以降じわじわと下降していき、12月には55前後になってしまったため、「志望校」のレベルもそれに合わせて下がっていったためです。最終的には入試との相性もあったのか偏差値60弱の男子校に何とか滑り込めたのですが、当初親から勧められていた学校の偏差値が65ほどあったこともあり、私自身の中学受験に対する当時の思いは「うまく行かなかった」というものだったのです。より正確に表現すると、「親の期待に応えられるだけの能力がなく申し訳ない」という気持ちでした。

 

いま、自らが親になって改めて考えると、自分が進学した学校は決してダメな所ではないと思いますし、もし息子が望んで受験して合格したならば、心から「よくやった!頑張った!」と言ってあげられる学校だと思います。私の親も最終的にはそのような気持ちでいてくれたのではないかと信じているのですが(確認したことはありません…)、とにかく地元の友人関係に未練があったことと、進学してから1年半ほど過ぎた時に「自分は男子校ではなくて共学に通いたいんだ!」と強烈に思い始めてしまったことで勉強への意欲が急速に失われてしまい、結局そのまま中学レベルの勉強もおぼつかないまま大学受験まで行ってしまったため、最終的にはわざわざ中学受験をしなくてもよかったのでは…という学力しか身につかずに終わってしまったのでした。

 

つまり、一言で言えば、「私には母校の中高一貫男子校は合わなかった」ということに尽きるわけなのですが、これは必ずしも私だけの特殊なケースではないとはっきり言えます。自分の場合は途中で別の高校に進学したいと思うだけで終わってしまい、それ以上のことは行動に移さないままとりあえず卒業はしましたが、そのようなミスマッチに私以上に苦しんだ級友の中には高校に進学するタイミングで別の学校に行った人も、また高校に進学はしたものの結局転校していった人もいました。6年間で約5%の生徒は中途退学したようでした。そして、このようなことが私の母校だけの話では決してないことは、実は簡単に確認できることなのです。中学受験ガイドのようなものを開き、中学1年生の在籍者数と高校の卒業生数を比較すれば、おおよその中途退学率が分かります。そして、高校募集をしていない学校では大なり小なり生徒数が減少しているのです。その中には学校が合わずに辞めていった人が一定数いることを考えると、「私立中学に入れば全て解決!」とは決して行かないことも見て取れるわけです。

 

このような事実は少なくとも積極的に表に出される情報の類ではないため、受験産業由来の情報にだけ接している限り意識されずに終わってしまうことが多いのでしょう。そして親がそうならば、まして中学受験の当事者である10歳前後の子供たちには想像もつかない側面であるわけです。親が主導せざるを得ないケースが多いということが、私が中学受験に感じている構造的な問題の一つなのです。しかし、繰り返しますが、そこを親子ともにしっかりクリアできているのであれば、私には否定する気は一切ございません。単純に我が家では第一子A子が通塾も私立中学受験も、ともに希望しなかったという理由から見送ったということです。

 

〜「『塾なし中学受検』を選んだ理由③」に続きます〜

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「塾なし中学受検」を選んだ理由①

こんにちは。今春、第一子A子が塾に通わずに都立中高一貫校に合格したことに関してあれこれと記述していくブログです。

 

前回までは「都立中高一貫校の合格ライン」というテーマについて書きました。今回から何回かにわたって「なぜ『塾なし中学受検』を選択したか」について書いていきたいと思います。

 

まずはじめにどのような理由があったのか、列挙したいと思います。

a. 子供自身の意思の尊重

b. 私立中学受験というシステムへの思い

c. 経済的な問題

 

その上で、まずはa. について書きます。これは今後「塾なし中学受検」を考えている、あるいはすでに実践しているご家庭の中では少数派なのでは?と勝手に考えているのですが、実は私自身は私立中学受験の経験者で、実際に私立中高一貫校に通い、卒業した経歴を持っています。とは言っても、小学生の頃の私の意思はそこには一切なく、完全に父親主導で行われた中学受験でした(母親の意思もほぼ反映されなかったようです)。まあ、今から30年以上前のその当時は、多かれ少なかれそのような家庭が多かったとは思います。学校説明会も各校年間で2〜3回開かれていた程度で、今のように受験生を対象にした体験会や見学会なんてありませんでした(一部あったのかもしれませんが、少なくとも我が家は参加していませんでした)。

 

記憶に残っているのは、小学6年生2学期の土曜日の午後、父親が半ドンで帰ってきた後に家族で時々私立学校(全て男子校)を訪ね、父親が受付で「見学させて下さい」と声をかけて校舎や校庭を外から見させてもらっていたことです。今のように受験生に対してサービス精神なんて発揮する必要がないくらい、黙っていても受験生がやって来るような時代だったからなのかは分かりませんが、良くも悪くも非常にあっさりした対応で、誰も案内や説明などしてくれる人もいない中、家族4人で(弟1人含めて)ぼーっと校舎を眺め、5分くらい眺めたら「そろそろ行くか?」なんて父親が言い出して学校を後にする……そんなことを2〜3校したでしょうか。

 

それ以外では、通っていた塾の公開模試で私立学校が会場になる時はそこを(父親が)選んで受けに行ったり、あまり関心がなかったためおぼろげですが一校だけ学園祭を見に行ったこともあったと思います。そう、記憶がおぼろげなのは、私立中学受験というものに対して私自身に全く主体性がなかったからなのです。むしろ、自分としては通っていた公立小学校の友人たちの大部分が進学する公立中学校でもよかったくらいでした。

 

私の出身区は全体としては東京でも比較的教育熱が高いことで知られるところなのですが、当然場所によってはそうでない地域もあるわけです。私の場合は周辺に商店街があるような地域だったこともあり、私立中学受験組はごく少数派でした。小学1年生から始めた進研ゼミが楽しくて、しかも小学3年生の時に親友になった友人が学年末の3月にようやく親の説得に成功してチャレメ(おそらくチャレンジメイトの略)になって、「これでお互いの家で一緒に勉強できるね!」と大喜びしていた矢先、親から「今月でチャレンジは終わり、明日から塾に行くからね」と宣告された時の絶望感、そして号泣しながら抗議しても一切聞き入れてもらえなかったことを昨日のことのように覚えているのは、それだけ幼い私にとって辛い出来事だったからなのでしょうか。

 

とにかくそのようにスタートからして強制的に塾通いを命じられた私にとって、頭に刻まれた構図は「中学受験=強制」というものになってしまったのでした。その後も私の塾通い、そして私立中高一貫校時代に関する話は色々とあるのですが、だいぶ逸れてしまった話をA子のことに戻すと、私はこの自分の経験から我が子の受験に関しては「絶対に本人の意思を尊重する」ということを肝に命じて子育てをして来たわけなのです。つまり、「はじめから中学受験をさせる、させないを親の考えで決めない」ということです。この点について時々心配になるのが、私に似たような経験をされた方で「だから子供には絶対に中学受験はさせない!」と決めている人がいること、そしてまるっきり反対に、自分が公立中学→公立高校と進んで大変苦労したからという理由で「だから子供には絶対に中学受験をさせるんです!」と決めている人が共にいらっしゃることです。

 

私にはそのどちらの姿勢にも危険なものが感じられます。大切なのは、なるべく両方の選択肢を提示した上で、「子供自らに選択させること」なのではないかなと個人的には思っています。そして、A子は私たち夫婦からのこの問いに対し、「塾に通ってまでは受験したくない」と答えました。それでいいんだと思います。

 

〜「『塾なし中学受検』を選んだ理由②」に続きます〜

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